2012年6月28日木曜日

ウルル(エアーズロック)→キングスキャニオン→アリススプリングス→アデレード

ウルル(エアーズロック)は正直、ただの岩なんだろうけど一応見ておくか、という感じだった。

でもパースから現地までの飛行機で、3、4時間かけてまっ平らな荒野の上を飛んだ後、突然現れる巨大な岩の塊には、素直に驚かされるしかなかった。

360度地平線が見える平原の中、ウルルがドカンと在って、「空から落ちてきでもしたのか」というのが率直な感想。

写真では絶対に伝わらない迫力。



The rising sun & Uluru




でも実際は、ウルルは斜めになった地層の一部が地上に突き出たもので、全体の5%でしかない。

(ちなみにエアーズロックの正式名称はウルル。ガイドブックや広告には世界「最大級」の一枚岩と書いてあるので誤解しやすいが、実際は二番目。本当の世界「最大」の一枚岩は、西オーストラリアにあるマウント・オーガスタで、ウルルの約2,5倍あるという。)


またウルルの近くには、カタジュタと呼ばれる巨石群がある。

ウルルと同じ地層の反対側が、くの字に曲がって地上に突き出たもの。



カタジュタの中。




Ayers rock sunrise


ウルルの周りを一周。






Ayers rock sunset



ウルルの後はそのままアリススプリングスに行く予定だったのだけれど、バス会社の手違いでキングスキャニオンに送られてしまった。しかもキングスキャニオンには電波がなく、かなり重要な取引をしている最中で、丸一日休まなければならない羽目に。バスドライバーと相当モメたが、No choiceということであきらめた。

しかしその後、バスに同乗していて話を聞いていた人たちが皆気遣ってくれ、食事をおごってくれたりした。

旅で一番いいのは、現地の人達の親切に触れることだと思う。

旅は、現地人の親切なしには進まない。


















Alice springs


アリススプリングスはアボリジニの人たちが多い。ざっと見た感じ、街の人口の半分くらい。アリススプリングスほどではないけど、西オーストラリアの田舎やケアンズにも多い。しかし東部の都会にはほとんどいないので、ワーホリで長く住んでいるけどここに来て初めて見たという人もいた。

アボリジニの人たちについての詳細は、最下部で。


Adelaide


こんなん道端で会ったらどうしよ。


Kangaroo Island





野生のコアラ。

なんだこの生物。



野生のカンガルー。



Memorial rock






以下、アボリジニについて。
ウィキペディア、「アボリジニ」の、「白豪主義とアボリジニ」の章より引用。


西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた[7]言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた。

しかし、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚スポーツハンティングとして多くのアボリジニを殺害した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に残されている[8]
1803年にはタスマニアへの植民が始まる。入植当時3000~7000人の人口であったが、1830年までには約300にまで減少した[9]。虐殺の手段は、同じくスポーツハンティングや毒殺、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという[10]。数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われた[11]

また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。捕らえられたアボリジニ達は、ブルーニー島キャンプに収容され、食糧事情が悪かった事や病気が流行した事から、多くの死者が出た。


これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジナルの人口は、10分の1以下になった[12]。さらに1876年には、タスマニア・アボリジナル最後の生存者である女性のトルガニニが死亡して、多い時期で約3万7千人ほどいた純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅した[13]

特に東海岸沿岸部等の植物相の豊かな地域に居住していたアボリジニは、当初はイギリス移民との平和関係を保っていたものの、後の保護政策に名を借りた強制的な移住もあり、この入植者達によるハンティングという惨劇を語り継ぐ者をも残さず姿を消している。

19世紀の末には、アボリジナルは絶滅寸前の人種(死にゆく人種)として分類されるようになる。


1920年頃には、入植当初50-100万人いたアボリジナル人口は約7万人にまで減少していた[14]。同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼等を白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである。元々オーストラリアに移住した白人は、犯罪者が大半を占めていた。そして、徹底的な人種差別政策、いわゆる白豪主義をもって、移民の制限及びアボリジニへの弾圧政策を続けた。当時の白人には、世界の他の地域に居住する白人に較べて犯罪率が高く、勤勉性に欠ける傾向がみられる、という報告も存在する。

また、1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子供や混血児(ハーフ・カーストと呼ばれ売春婦として利用される事があった)[15]を親元から引き離し白人家庭寄宿舎で養育するという政策が行なわれた。様々な州法などにより、アボリジニの親権は悉く否定され、アボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくものと建前上は定義されていたが、実際はアボリジニの文化を絶やしアボリジニの存在自体を消滅させるのが目的であった。政府教会が主導して行なわれたこの政策で子供のおよそ1割が連れ去られ、彼らの行き先は実際には白人家庭でも寄宿舎でもなく、強制収容所や孤児院などの隔離施設であった。そして、隔離施設から保護を放棄されたり、虐待を受けたり、遺棄された者も少なくはなかった。結果として彼らからアボリジニとしてのアイデンティティを喪失させることとなった。彼らは"Stolen Generation"(盗まれた世代)、または"Stolen Children" (盗まれた子供達)と呼ばれている。尚、「盗まれた世代」の政策が実際に徹底されて行われていたか、またどの程度の規模だったのかは、未だにわかっていない。

無論、アボリジニも全くの無抵抗だったわけではなかった。これらの政策に対してのデモや暴動を起こすものも少なくなかったが、結果としては白人たちの敵愾心を煽るにとどまった。逮捕者の中には、まともな裁判を受けることなく、そのまま死刑に処せられた者もいたほどである。

一方、不毛な乾燥地域である内陸部のアボリジニは周辺の厳しい自然環境に守られながらどうにか固有文化を維持し続けた。今日でもアボリジニ文化の史跡は沿岸部都市より隔絶された内陸地に多く残る。近代のアボリジニ激減と、文字文化を持たなかった事から文化的痕跡を残さず消滅した部族も多く、彼等の言語や文化の系統を調査する試みは進んでいない。音声的に完全に失われた言語も多く、それらの民俗学的調査は「既に大半のピースが失われたパズル」に准えられている。


その後、アボリジナル人口は徐々に回復し、1996年には約35万人になった。これはオーストラリア総人口の約2%である[16]

「アボリジニ」(白豪主義とアボリジニの悲劇)
(2012年4月10日 (火) 13:10 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』


以上のことは史実ではあるけれど、現在のことではない。日本も7、80年前まで軍国主義でアジア人を虐殺してたわけだけど、そのころの日本人と今の日本人を一緒にしてもらっては困る。実際、オーストラリア政府は2008年に公式に謝罪していて、差別是正措置や公的扶助も行なっている。もちろん様々な問題が今も残っているし、2008年というのはつい最近で遅すぎる感もあるが、とにかく今と昔は違うということだ。

個人的な印象としては、ここで綺麗事を言っても仕方ないので率直な感想を言うが、アボリジニの人たちは原始的で異質な感じがした。世界のどこにもいないタイプの人間だと思った。もちろん貧しさのせいもあると思う。そして最も重要なのは、その貧しさだとか原始的だとかも、文明主義的価値観からの観点でしかないということだ。

実際アボリジニの人たちは、オーストラロイドという人種に分類されていて、黒人(ネグロイド)、白人(コーカソイド)、そしてアメリカ先住民や狭義のアジア人(モンゴロイド)とも違う人種とされている。他の人種と大きく異なる点は、黒人、白人、アジア人たちが世界の至る所に散らばっているのに対し、オーストラロイド、特にアボリジニの人たちは、決まった地域でしか見るのが難しいということだ。つまり異質というよりか、見慣れていないということだろう。

ちなみにアボリジニの人たちは、オーストラリア大陸に初めて来た白人たちについて、臭くて野蛮な人たちだという印象を持ったという。そして「こちら側」の一般的感覚から言うと、アボリジニの人たちは脇の臭いが強い人が多い。また、その脇の臭いを人の頬につける風習が昔あったとも聞いた。

実際に見た話としては、アボリジニの人たちの中には白人と仲良くしている人もいれば、完全にふて腐った態度をとっている人もいた。警官ともめていて、公園から追い払われている人もいた。ラリって街を徘徊している人も時々いて、アリススプリングスでは逮捕されている人も見た。(アボリジニは体質的にアルコールに弱い。ガソリンで酩酊を楽しむ人もいるという。)子供が多く、皆元気で、家族の絆はかなり深そうに感じた。

アボリジニの人たちとはちょっと話したくらいで、何を知っているわけでもなく、これ以上言えることはない。

ただ、オーストラリアは元々アボリジニの人たちの土地で、オーストラリアの初期移民であるイギリスからの流刑囚たちが彼らを虐殺し、土地を奪ったという歴史的事実は、この国を知る上では重要なことだと思う。